信号に向かって走るな

会社帰りに走っている女性とすれ違った。

走っているといっても、ランニングではない。

走り方がドタドタ走りだったし、第一そんな服装ではなかった。

時間が時間(夜八時。夏でも真っ暗だろうし、今は秋だ)なので、遅刻ではないだろう。

夜勤か?それとも、見たいテレビでもあるのだろうか。


ふと、自分が今さっき信号を渡ったことに気がついた。今頃、点滅している頃合いだろう。

なるほど、それで合点がいった。世の中には、信号が点滅すると条件反射的に走り出す人たちがいると聞く。

名付けるなら、「信号が点滅したら走る病」である。病気なら仕方あるまい。


いや、ちょっと待て。それだと、横目でも何でも、点滅している信号を見てしまったら走り出さねばならない。

そんなことをしていたら、いつまでたっても目的地にたどり着かないではないか。それは重病過ぎる。方向音痴どころの騒ぎではない。


では、これはどうだろう。「進行方向の信号が点滅したら走る病」。

これなら、脇道にそれることはない。一見落着である。


いやいや、待つがいい。それだと、進行方向の次の次の信号が点滅しても走らねばならないことになる。目の前の信号の色に関わらず、である。なんという無謀。命知らず。こんなに危なげな病気は聞いたことがない。


では、これならどうだろう。「進行方向の次の信号が点滅したら走る病」。

これなら赤信号を突っ走ることもないので一安心だ。


…が、待て。もし次の信号がずっとずっと先だったらどうなる。

見えてしまったが最後、間に合わないと知りつつ走り出さねばならない。なんと無駄な行為だろう。もったいない。


では、こうしよう。「進行方向の次の十メートル以内の信号が点滅したら走る病」。

これなら、間に合いそうなときにだけ走り出すことができる。非常に効率的である。


なるほど、彼女は病気だったのだ。その名も、「進行方向の次の十メートル以内の信号が点滅したら走る病」。そのために、走らざるを得なかったのである。


私は大いに同情し、点滅する信号を前にして立ち止まれる幸せを踏み締めたのだった。